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静岡地方裁判所 昭和33年(わ)158号 判決

被告人 古宮とよ

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実の要旨は被告人は昭和三一年一一月一九日午後六時頃静岡市曙町二区(有東寮)二階自宅前廊下附近においてかねて納税の事から反目していた間柄である松林利子(当二六年)と些細な事から口論となり右手で同人の右腕を内側に捩り上げる等の暴行を加え因つて同人に対し全治迄一七日間の加療を要する右前膊不完全骨折の傷害を加えたものであると謂うにある。

一、喧嘩口論の経緯

よつて審按するに杉本いしの検察官に対する供述調書、司法警察員作成の実況見分調書、証人松林利子、松林ハナ、斎藤昇、藤井すが、杉本いし(第一回)、杉山ちよの各証言、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書並に被告人の公判における供述及び最終陳述を彼此綜合すれば被告人は昭和三一年から静岡市曙町有東寮二区の納税組合長をやつており、松林利子はその納税組合員であつたが同年五月末頃被告人が静岡市役所徴税課の係の者から右利子の県市民税の徴税令書を受取り同人にこれを配布したことがあつた、そのとき利子は自分は所得がないから税金がかかつてくる筈がないと申したが、その際利子の母松林ハナの依頼もあつたので被告人は後日静岡市役所に行つたときその点につき確めたが市役所の係の者から利子が以前大浜製紙に勤めていたことがあつたのではないかと訊かれたが、判らないと答え帰つてから利子にその事を報告すると利子は「私は以前大浜製紙に勤めていたことはあつたが臨時であつた、それを市役所ではどうして知つていたのであろう、市役所の青二才にそんなことを言われて黙つておられぬ」、といつてすごい見幕で怒つていた、するとその後同年一〇月一七日頃市役所徴税係が被告人方に立寄つた上利子方に行つたが約四十分位昂奮して税金の事について相当声高に話合つていたが、また被告人方に挨拶して帰つて行つた、そのとき利子は自分の室の入口に立つて係の者の後姿を見た上被告人を振返り「畜生」といつて大きな音をさして入口の戸を閉めた、同月二〇日朝、利子の兄松林富夫が被告人方にきて「あなたは私の家の税金の事に口出してくれなくともよい、あなたには一銭も借はないよ」と相当激しい口調でいつたところ、それに引続いて富夫の傍にいた利子は「六十にもなつて、婆、気を付けろ、チエツ……訴えるぞ」と悪口をいつた、どうやら利子は被告人が市役所の係の者に利子の税金の事を話したので係の者が知つて利子方に徴税にきたものと誤解したようである。その翌日も利子は母と二人で家の中で、外出先から帰つてきた被告人に対して「あの鬼婆、自動車でひかれて死んで終え」などと悪罵をあびせた、その後は利子は廊下で被告人と会う度毎に故意に廊下を足で踏みならしては何か小声を出して通り過ぎるようになつた、同年一一月一九日にも例の通り同様な事をしたので、さすがに被告人も憤慨して利子に対し「気狂みたいなことをしないで下さい、言うことがあつたら口で言つて下さい」と申したるに利子は自室にかけ込み「鬼婆は気狂といつた」といつて手足をバタバタしてわめき出した、ところで証人斎藤昇、藤井すが、小田とく、杉本いし(第一回)、池谷ひさの、杉山ちよ、中村秀平、古宮輝久、古宮伊助の各証言を参照考査すれば、松林利子は極めて我儘で、短気で、気が強く、愛憎の念が深く、悪口癖のある社交性のない女性であり、被告人は幾分多弁ではあるが、温和な、親切な、世話好きの女性であることが窺い知られる、而して被告人方の居室と利子方のそれとは曙町有東寮二区の二階の略々中央に向いあつていて利子が右のような行動をしたので被告人は利子方居室の前に行き利子に対し「私は気狂とはいいません、そんな気狂みたいなことをしないでくださいといつたのです」と言つたところ、利子は被告人に「気狂とは何だどこが気狂だ」と叫んだので被告人は再び「私は気狂とはいいません、人の前にきて足をばたばたするから気狂みたいな真似をせず、言う事があれば口でいつてくださいといつたのです」と繰返して言つたところ利子は自室の入口のところで「鬼婆、言つた言つた」とわめき出し、「何だ」と言つて両手で被告人の手を引き室の中に入れると同時に又両手を以て被告人の胸を突いたので、被告人の背中が入口の戸に当り、少し開いていた戸がはづれそれと共に廊下に倒れた、すると利子は大声で「人の家の戸を倒した、元通りにして行け、はめて行け」と申したので被告人は起上り戸をはめて夕飯時なりしため一旦家に入り利子もまた同様自分の家に帰つた。そこで被告人は夕飯の仕度をするのに勝手場でコンロに火を焚き薬缶に水を入れるため薬缶を持つて家の外の流し場に行こうとして家を出ると利子は自分の室の入口に立つており、被告人を見ると恐ろしい顔付で「何だ何だ」といつて肘で被告人を押付けるので被告人は次第に自室の方に押されてきたが、そのとき隣室の藤井すがが出てきて被告人の持つている薬缶をとつてくれた。すると利子は自分の部屋に帰つて行つたので被告人も部屋に入つた、かくして被告人と利子との喧嘩は一旦収まつたのであつたが、被告人はそれから同日午後六時頃勝手場コンロの前で中腰となり火をとり出していると、利子は口惜しがつて又被告人の家に入つてきて「畜生畜生」といつて被告人の後に迫つてきたので被告人は「私は今御飯の仕度をしているのだから入つてきては困ります。すぐ出て行つて下さい」と再三申したるも利子はますます肘を張り威丈高になり、被告人に向つてきたので被告人は炊事の仕度をしているときではあり且つ又火を焚いている場所でかようなことをされては甚だ危険であると考えたので、左手で利子の右腕(右手首の少し上部のところ)を捩り乍ら押した(被告人は両手で利子の腕を押した丈だと言ふ)ので利子は痛い痛いと叫び出した、そこでそのとき利子のすぐ後にいた利子の母が「後にしな」と申し左手で利子の左手を引張つたので利子はあきらめてそのまま母と共に自室に帰つていつた事実を認定することができる。

二、利子は被告人の行動によつて傷害を受けたか、若し受けたとすればその程度。

医師三宅信明の松林利子に対する証明書、証人三宅信明の公判における証言及び鑑定人藤野正治の公判における鑑定の結果を綜合考量すれば利子は被告人に右腕を捩られたため肉眼的には何等の異状なく触つた場合に腕の中央部に痛を感ずる全治迄約一週間を要する挫傷を蒙つた事実を認め得られる、利子は公判では証人として被告人に左手で右腕を捩られた上、右手で捩られた腕の手首から少し上から肘の少し上あたりの範囲の外側の部分を三回位殴られたと証言しているが、既に前段認定の如く右腕を捩られた丈でなおその上殴られたものとは到底認め難い、蓋し利子は警察官や検察官に対しては右腕を捩られたと供述している丈でその上更に殴られたとは供述していないし利子の味方である母ハナでさへ警察官、検察官及び公判において終始一貫して被告人は利子の腕を捩るのをみたとだけ供述しているからである、それのみならず利子は前認定の如く被告人等に対しては極力自分は所得がないから県市民税を支払う必要がないし、従つて支払つてないと強調しているのであるが、証人斎藤昇の証言によれば利子は昭和三一年度市民税均等割五〇〇円の未納があつたが市役所徴税課係員の数度の説得によりその支払をしたことを認めることができるし又利子は終始田沢医院で本件でレントゲン写真を撮つて貰つたと供述しているが証人田沢義淳、田沢義逸の公判における各証言によれば、同医院ではレントゲン写真は撮らなかつたことを認定できるから此等の点から考察すれば利子は相当虚言を弄する性癖のある女性であることが認められるから同人の公判における被告人から右腕を殴られたとの証言はたやすくこれを措信し得ない、又医師田沢義淳の利子に対する診断書には利子の受けた傷は右前膊不全骨折で昭和三一年一一月一九日受傷し、同年一二月六日迄加療したと記載されているが証人田沢義淳、田沢義逸、池谷ひさのの各証言を綜合すれば利子の傷は外見的に皮膚がむけているとか色が紫がかつているとか、また爪跡があるとかは見受けられず只患部は幾分はれていたが大したことはないのに利子は大げさに痛い痛いというので直接にその部分に触つてみて顔が急に変つたりするのをみて手首と肘との間の骨にある程度の傷ができているであろうと思い、そして圧痛のする程度のものという意味で融通性の広い不全骨折と診断したが完全骨折即ち骨が折れて離れたものをつぐとすれば四五週間はかかるのであるが、利子の場合は一〇日乃至一四日位で癒る極めて軽い傷である事実を認め得るが、同証人等の各証言及鑑定人藤野正治の鑑定の結果によれば、所謂不全骨折の如きは如何に軽度のものでも通常の場合は患部を何か鈍器即ち堅いものでなぐるか又は転んで手をつく等によつて生起するので六〇才に垂んとする中位の体格を有する女性が単に腕を捩つたというだけで生起するとは到底思考し得ないことを認むべきにより被告人は利子の右腕を左手で捩つたために右前膊不全骨折をきたしたものと謂うことができない。

三、被告人の本件行為は正当防衛かどうか。

よつて進んで被告人の利子に対してなした本件行為は刑法に所謂る正当防衛に該当するや否やを審究するに既に前述したように被告人方前において被告人は夕飯の仕度をするため家の外の流し場に行つて薬缶に水を入れようとして薬缶を持つて家を出ると利子は自室の入口前からこれを見て恐ろしい顔付で「何だ何だ」といつて肘で被告人を押付けそのため被告人は次第に自室の方に押されてきたが、隣室の藤井すがが来合せ被告人の持つている薬缶をとつてくれ、利子はそれで自室に帰つて行つたので被告人も部屋に入つた、かようにして被告人と利子との喧嘩は一先収まり中絶したことは明である。しかるにそれから被告人は勝手場コンロの前で火をとり出していると利子は口惜しさに堪えず被告人の家に入つてきて「畜生畜生」といつて被告人の後に迫つてきたので被告人は「私は今御飯の仕度をしているから入つてきては困ります、すぐでて行つて下さい」と再三言つたが利子はますます肘を張り威丈高になり被告人に向つてきたことは明瞭であるから、これ即ち利子は被告人の居住権に対して急迫不正の侵害をしたものと謂うべく、これにつき被告人は炊事の仕度をしているときではあり、且又火を焚いている場所でかようなことがあつては甚だ危険でもあると考えたので左手で利子の右腕を捩り乍ら押したのであつて、これを諸般の事情から考慮して被告人の採つた行動は洵に己むことを得ずして必要にして且相当な防衛行為を為したものと認むべきである。従つて被告人の右行為によつて既に前認定の如く利子に傷害を加えたものとするもこれに対して被告人にその罪責を負はせることができないものと謂はざるを得ない、故に被告人の本件行為は正に刑法三六条第一項に該当し罪とならないものであるから、刑事訴訟法三三六条前文を適用し被告人に対し、無罪の言渡を為すべきものとし主文の如く判決する。

(裁判官 小島喜一郎)

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